建学の精神

校訓 質実剛健・真剣至誠・文武両道

開校式の式辞(尾崎楠馬)

尾崎楠馬先生
尾崎楠馬先生
(開校式に配布された記念写真帖から転写)

茲に本校開校式を挙行するに際し、長官閣下を始め朝野貴賓の臨場を忝うせるは、本校の最も光栄とする所なり。本校は大正十一年四月を以って開校し、当初は十学級、生徒定員五百名の予定なりしが、大正十三年度より更に五学級を増加し、定員七百五十名となり、同年度の初めより逐次一学級宛を増加し、今や学級としては尚二学級を欠くも、学年としては一学年より五学年に及び、来年三月を俟って第一回の卒業生を出だすべき時期に至りしかば、茲に本日をトして開校式を挙ぐる所以なり。

天の時は地の利に如かず、地の利は人の和に如かずと。文運の隆昌に伴いて中学就学者の年毎に激増を来たす好箇の時機に際し、県下新設中学五校の魁をなして既に早く本校の創設せられしは、是天の時を得たるものに非ずや。東海の要衝に位し、磐田原頭の一角を占め、而も奈良朝の文化を偲ぶ国分寺の旧跡に此の敷地の選定せられしは、是最も地の利を得たるものに非ずや、然り而うして、外は県当局の用意周到なる指揮監督と、地方有志者の私を棄てて公に奉ずる至誠と、父兄諸君の熱烈なる同情と援助とを得、内は職員生徒一心同体和衷協同の力を献ぐるもの、是最も能く人の和を得たるものに非ずや。鳴呼天の時は地の利を併せ、更に加うるに人の和を以ってす。三事相応渾然として一に帰す、豈出色の施設無くして可ならんや。

本校創立以来人材の養成を以って教育の眼目となし、特異の校風を挙揚して此の目的を達成せんとし、外には生徒の勤労作業を奨励して質実剛健の気象を養うと共に、又能く環境を整理し美化して自ら高尚優雅の情操を培い、内には図書を充実して精神の糧を与え、以って智徳の啓発に資せんことを期せり。

往昔校舎の落成せし当初は、建築は頗る其の宜しきを得たるも、校舎の周囲は平蕪荒穢一木の見るべきものなかりしかば、学業の余暇生徒の力を以って樹を遠近より移し、或は丘を起こし池を穿ち、花壇を開き温室を設け、台榭林泉の趣を添えて其の美観を増し、或は運動場を拡張し防風堤を築き水泳場を備うる等、悉く是血と涙と汗との結晶より成れる開拓創造の跡ならざるはなし。此の間、生徒をして土に親しましめ、労働を重んじ秩序を尊び、逸を避けて労に就くの習いと、長幼相助け強弱相携え、親和協同を喜ぶの俗とを馴致し、其の心身を練磨すると共に自ら高雅濶達の性情を涵養する等、其の効果蓋し尠なからざるべきを信ず。

斯くて曩の荒墟は変じて、一個の楽園と化し、輪奐の美と相俟って愈々其の光輝を発し、之に加うるに図書の蒐集も頗る多くして今や蔵書五千有余巻を超え、正課と相表裏して修養に資する所亦極めて大なり。鳴呼仰いで富岳の高きを望み、俯して東海の波濤を聴き、入っては思いを学に潜め、出でては意を苑池の間に肆にす。日夕此の校に出入するもの、誰か上皇恩の無窮に感銘し、下衆生の恵沢に感謝せざるものあらんや。凡そ事の成るは成るの日に成るに非ずして、蓋し必ず因って起こる所あり。况や本校其の形骸漸く成りて内容の充実は尚幾多の歳月を要するおや。自今一層奮励愈々駑鈍を尽くして以って他日の大成を期すべし。

今此の式典を挙ぐるに当たり、往を懐い来を想うて感激言う所を知らず、聊か所懐を述べて式辞となす。

(大正十五年十一月六日)

尾崎楠馬先生の略歴

  • 明治11年10月 1日高知県安芸郡赤野村桜浜76番屋敷に出生
  • 〃 24年(14歳)高知尋常中学校に入学
  • 〃 29年(19歳)4月8日に高知県師範学校に入学
  • 〃 33年(23歳)高知県師範学校本科を卒業、4月に芸陽高等小学校へ
  • 〃 36年(26歳)東京高等師範学校に入学
  • 〃 40年(30歳)東京高等師範学校本科国語漢文部を卒業、4月から茨城県立土浦中学校に
  • 大正 6年(40歳)3月に浜松師範学校へ
  • 〃 11年(45歳)新しく開校した静岡県立見付中学校長に迎えられる
  • 〃 15年(49歳)11月6日に見付中学校の開校式が行われた
  • 昭和17年(65歳)見付中学校長を退職される
  • 〃 18年(66歳)校内に尾崎楠馬先生頒徳碑が建立される
  • 〃 29年(77歳)2月5日に東大病院にて逝去

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ドカ中精神は建学のこころ

真の人間教育を目指す 尾崎校長・小田原教頭

(「磐田人物往来」より転載。作者は寺田伊勢男氏)

大正十一年、当時の名門校中泉農学校の道場を借りて入学式を済ませ、旧見付学校を仮校舎としてスタートした県立見付中学校の前途は多難なものであった。しかし初代校長として浜松師範学校教頭から赴任した尾崎楠馬校長は高知県出身、そして校長の三顧の礼に感動して教頭を引き受けた小田原勇教頭は鹿児島県出身。静岡県とは風土の違った土地に育った硬骨の教師コンビが誕生したことになる。二人は、青年教師時代に茨城県土浦中学校で苦楽を共にし心通じた仲であった。

小田原教頭は「大学予科や専門学校への進学ばかりに熱中して、人の魂を養うことを忘れているような教育では駄目だ。心と身体を鍛える教育をすべきだ。」と尾崎校長に進言し、意気投合した二人の教育が始まった。

何もない磐田原の野原に立って、二人は零からの出発、真の人間教育をしようと心に誓ったことであろう。

一学期が終わった七月、「自分のものは自分で運べ」と言われ、生徒は自分の机と椅子を担いで、旧見付学校の仮校舎から校舎のみの見付中学校へ移った。

「学園を自分たちでつくろう」の合言葉の下に、校長、教頭が先頭に立って、毎日の放課後は一~二時間鍬を握り、モッコ担ぎや草むしりで運動場づくりが始まった。そしてその後、石ころ交じりの運動場でクラブ活動に励んだ。まさに「ドカ中」のスタートであった。二人が目指したものは、勤労・鍛錬の労作教育を通した人間教育であった。そして先生も生徒も一緒に汗を流して一つのことを成し遂げる師弟同行の下に、生徒も学校づくりに燃えたことであろう。

校則も厳しかったという。手袋、オーバーの使用禁止、登校したらコンクリートの上でも靴下の着用禁止、ポケットに手を入れてはならない等々であったという。

そして労作教育は校庭の拡張工事と防風堤づくりへと進んでいった。磐田原の野原を切り開いた運動場の砂埃を防ぐために、小田原教頭の提言によって、幅十四、五m、高さ六m、延長一七〇mの大堤防づくりが始まった。父母の非難の声を一身に受けながらも先頭に立って生徒を引っ張り、ついにこの難事業を成し遂げた。これを成し遂げた生徒たちの胸中には、困難なしごとも立ち向かえば不可能を可能にすることができるという強い信念を植え付けられたことであろう。近年この頃の教え子たちを中心にした人達によって、小田原山と呼ばれるようになった防風堤の最高部に小田原教頭の顕彰碑が建てられた。

労作教育はさらに続いた。一回生が最上級に進んだ大正十五年八月、中泉農学校と同じ様に生徒と教師の合作による五十mプールが完成する。小田原教頭はこの機を逃さず水泳部づくりに乗り出す。

尾崎・小田原コンビの「質実剛健」の鍛錬教育の具体化はまだまだ各所に見られる。毎週土曜日の午後は加茂川、高町、中泉、八幡宮の五〇〇〇mコースのマラソンを全校で実施したし、夕方出発して早朝帰校する夜間遠足もよくやった。そして小田原教頭が全校生徒を泳げるようにした特訓は後々まで語り継がれた。それは、天竜川の河口で、船の上から生徒を次々と突き落とし、泳がざるを得ない極限に生徒を追い詰めたことである。今ならすぐ問題にする人がいるのではなかろうか。賛否は分かれるにしても、人間を鍛えることによって真の人間性を培おうというこの精神は、見付中学の教育として脈々とつながっている。

人間性を培うという理念は、ただがむしゃらに鍛えればよいというだけではなかった。心を育てるには、綺麗な教育環境が必要だと校舎を磨くことにも専念した。掃除は徹底してやった。美術の丹羽先生は情操陶冶の場を造ろうと、生徒にも手伝わせて県道から正面玄関に上がって行く左側に素晴らしい庭園を作り上げた。

校内の整備が整ってきた大正十五年十一月六日待望の開校式が挙行された。式には知事以下多数の人々が参加した。校庭には雑草一本、塵一つ無く、素晴らしい花壇、緑の芝生、ピカピカに磨かれた廊下、キビキビと礼儀正しい生徒たちを見て、地元出身の柴田善三郎愛知県知事は「今まで私は日本国中をあちこち歩き、数多くの中学校を参観してきたが、これ程見事な教育成果を上げている学校は見たことがない。尾崎校長、小田原教頭以下職員、生徒が一致しての教育の可能性の高まりを見て、これ以上の感激はない。」という趣旨の挨拶をしている。

そして土方仕事ばかりやらせて勉強をやっているのかという批判が目立つ見中から、次々と優秀な上級学校へ進学する生徒が出るに及んで、尾崎・小田原コンビの教育方針に傾注する者が増えていった。

見付中学の礎を築いた小田原教頭は、昭和三年十二月二十四日請われて榛原中学(現榛原高校)の校長として赴任し、荒廃していた学校を全国のモデル校と言われるまでに育て上げた。退職後も人間教育の理想を目指して自ら「培本塾」を創設し、人間教育一筋の人生を全うした。

尾崎校長は大正十二年二月十日から昭和十七年三月三十一日という長きにわたる校長職を全うし、そのまま見付に住み着き、教え子や地域に影響を与え続けたが、病に倒れ、昭和二十九年に七十七歳でこの世を去った。

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