11月22日(土)、遠江国分寺の会主催による「磐南校歌と遠江国分寺」と題する講演会が、はぐま会館で開催されました。講師は、東大寺寺務所執務室の鈴木 公成氏(高52回)で、会場は100名を越す来場者でほぼ満席という盛況ぶりでした。

小山展弘さんの開会の言葉、草地磐田市長の挨拶、山本磐田市教育長による講師紹介に続き講演が行われました。
卒論で東大寺修二会をテーマに
磐田南高校在学中、生徒会長を務めた鈴木さんは、國學院大學に進学し日本文学科で民俗学を専攻されました。卒論で東大寺二月堂の修二会(しゅにえ)=「お水取り」をテーマにしたことから「どうにかして東大寺に入り込みたい」と懇願し、修二会期間中の僧侶の身の回りをお世話する係となって約1か月参加されました。母校校舎が存在する故郷の風土が歌い込まれている磐田南高校の校歌に着目すると、国分寺がどのような土地を選んで建立されたのかが見えてくる、「国華(こっけ)」と称された国分寺が遠江の人々によって、どのように仰ぎみられたかを想像してみたいとして、概ね次のように述べました。

第1章 国分寺・東大寺創建期の時代背景について
天平時代の天然痘の大流行により、全国人口500万~600万のうち110万~160万人が死亡したと推定され、藤原広嗣の乱の勃発などにより王権が失墜した。聖武天皇は、権威の復活を図り、人々を統合する施策として国分寺建立、大仏建立の詔(みことのり)を全国に発出した。国分寺建立の詔には本文と条例3ヶ条、願文5ヶ条が書かれ、法華経による滅罪、疫病を滅ぼし、原因となった罪を滅ぼすことが願われていた。
第2章 国分寺の選地条件、七重塔の重要性について
国分寺の施設のうち、七重塔は、「国華」(国のシンボル)であり、飛鳥・奈良時代の寺院で、七重塔以上の規模を持つ塔はいずれも天皇が発願し造営した官大寺であり、天皇の権威を象徴する塔であった。こうしたことから、国分寺建立にあたり7つの選地条件が定められていた①国華として仰ぎ見るのに良い地形 ②水害等の憂いなく、長久安穏の場所 ③人家の雑踏からは離れていること ④人が集合するのに不便でなく、交通至便のところ ⑤国府に近いところ ⑥条里区制の拘束を甘受すること ⑦南面の土地であること
第3章 遠江国分寺塔の高さについて
箱崎和久氏、石田茂作氏などの研究から、遠江国分寺の塔は七重塔であった蓋然性が高く、おおざっぱに言えば遠江国分寺塔の総高は50m~68mの中に納まると想定され、中間値は59mとなる。切りのいい数値として60m程度と想定したい。

第4章 磐南校歌にみる遠江国分寺の立地について
磐南校歌には、七重塔が第2章で述べた選地条件に適していたことを物語る歌詞が数多くみられる。磐田原台地は富士山も眺望できる見晴らしの良い台地であり、国分寺の立地は、大の浦や東海道の存在などから水上交通・陸上交通の要衝であったといえる。
第5章 遠江国分寺七重塔は遠州各地からどのように見えたのか
先行実験とも言えるのが、磐田青年会議所が1990年7月8日に実施した「国分寺フェスタin大池」で、「再現!地上66.7m」という七重塔再現プロジェクト」であった。当時の新聞報道によれば「御前崎町あたりからも、その威容が目に留まった」という。
この再検証をすべく国分寺七重塔のVista(見通し/眺望)を確かめた。地図ソフト「カシミール3D」を用い、国分寺塔の可視マップを作成して検証を試みた。その際、NTT西日本磐田ビル鉄塔(高さ59m)を遠江国分寺塔の代替目標とした。「遠江国分寺塔のヴィスタ(見通し)一覧表及び同関係地図」を作成し、それを基に現地に足を運び、実際の眺望を検証した。その結果、およそ5km~10km圏内の地点からは、肉眼でも国分寺塔が眺望できたと思われる。

右:同関係地図(横向き)
地方支配の拠点であった官衙、寺院、駅家をはじめ、陸上交通の要路・東海道、海上交通の要衝・大の浦からも見通しが得られ、南西は長上郡、長下郡、敷智郡から、南東は山名郡、佐野郡、城飼郡からも眺望できたことになり、国分寺塔は遠江国という広域支配の象徴として、さらにその先の天皇の権威を示す「国華」として、遠州の空に威容を誇っていたと考えられる。
以上、盛大な拍手で閉会となった。公成さん、本当にありがとうございました。

講演の翌朝、私は犬の散歩で大池に行き、NTT西日本磐田ビル鉄塔を探してみた。すると、上の写真のとおり見事に高さ59mの鉄塔が見えた。日の出前の明るくなり始めた空にそびえたつ七重塔のように見えた。また、東を見れば、校歌のとおり「霊峰富士」のシルエットが見えた。私は、いつものように校歌を口ずさんだ。

(高29回 廣田 茂)
